【大切な友だった。盲導犬の一生】
盲導犬のありがたさの伝わってくるお話しです。
よろしければコチラでご覧ください。
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『目は口ほどに物を言う』と言いますが、
犬の場合はしゃべれない分、視線には特別な意味があるようです。
【まっすぐに視線を合わせる】
犬が見開いた目でまっすぐに相手を見すえるのは威嚇や優位性の表現、あるいは攻撃に出るぞという宣言です。
優位な犬や狼は劣位の相手に近づくとまっすぐに凝視します。
劣位の犬は視線をそらし、顔をそむけ、地面に伏せて服従的な姿勢をとることが多いのです。
直視しても相手から反応がないと、対立の度合いが高まります。
というわけで、この凝視は
『ここでは、わたしがボスだ、おまえは引っ込め!目ざわりだ!その目つきをやめろ!さもないと後悔することになるぞ!』と解釈できます。
面白いことに、犬は人間の行動をコントロールするために凝視を使うことがあります。
夕食の食卓でみんなが集まって何かを食べているときに、よくその光景を見かけます。
犬はそのそばに座りこんで人をじっと見つめ、人が食べているものに視線を移します。
これは明らかに食べ物を手に入れようとする行為で、子犬のときはとくに効きめがあります。
人は犬の目つきを
『あわれっぽい』『ものほしげ』『訴えている』などと解釈し、
少しばかりおすそわけを与えます。
しかし、犬からすると、じっと見つめることで支配性を主張しているです。
それに反応して
犬に望むものを与えると、犬はあなたが服従的な態度をとったと解釈し、自分は群れの中であなたより高い順位を認められた
と考えるのです。
これは大型犬の場合は危険な先例を作り、小型犬の場合でも問題の種をまくことになります。
犬を従わせるには、あなたがリーダーになること、少なくとも順位が上になることが肝心なのに、言うことをきかない犬を作りあげてしまうのです。
この例が示すとおり、どんな反応をする場合も、まずあらかじめ犬が何を求めているかを知っておく必要があるのです。
そして知らない犬を直視することも、要注意です。
支配的な犬をじっと見つめると攻撃と受けとられ、怯えた大を見つめると、恐怖心をあおって逆襲されかねない。
だけど、自分の犬の場合は、しつけのさいに凝視を使うと効き目があります。
犬の目をじっと見すえることで、困った行動をやめさせられる場合も多いのです。
たいていの犬はあなたの愛情を取り戻そうとして、和解を求める服従的な態度で反応するでしょう。
【相手と視線が合わないように、目をそらせる】
直視が威嚇だとすれば、視線をそらせるは、服従ないし恐怖を表わす信号になるでしょう。
犬の場合は、たしかにそれが言えます。
支配的な犬と対面した犬は目をそらせます。
たいていは視線を落とし、
『あなたがボスだと認めます。面倒は起こしたくありません。』
と言いたげな動きをします。
【まばたき】
たいていの動物がまばたきをします。
犬の場合は、まばたきが服従の信号にもなります。
対決の場面では、『最初にまばたきをしたほうが降参』するのがふつうです。
犬のコミュニケーションでは、まばたきは相手の威嚇的な凝視をかわし、服従を示す役割をします。
ただし、相手に優位をゆずる表現ではあっても、視線をそらす行為ほど服従的ではないのです。
というわけで、まばたきは、
『負けはしないが、あなたがリーダーだと認めよう』であり、
『かんべんしてください、あなたの指示に従います』とは違います。
犬が目で訴えることは想像以上に多いですね。
『犬語の話し方』スタンレー・コリン著より引用
世界中に主人の帰りを待ち続ける犬の話はたくさんありますが
日本ではハチが有名ですね。
東京帝国大学教授の上野英三郎に飼われていた秋田犬のハチは、よくご主人を見送りに駅までお供をしました。
そして犬独特の体内時計で、毎日午後3時にご主人を迎えに駅へ行きました。
しかし、1925年5月25日、上野教授はもどって来ませんでした。
その日の午後、大学で急逝していたのです。
忠誠心の強い秋田犬ハチは、その日真夜中まで駅で待ちました。
翌日からその後10年のあいだ、ハチは駅へ行って愛するご主人を夜まで待っては、一人で家に帰りました。
なにがあろうと毎晩見張りを続けるハチを、誰もとめることはできませんでした。
この忠誠心あふれる行動に胸を打たれた人たちが、ハチに食べ物と水を与えました。
1935年に息を引きとるまで、ハチは毎日欠かさず駅に姿を見せました。
1934年には、ハチの銅像が渋谷駅前に建てられました。
そして戦争で像が破壊されたあとも、1948年にもとの銅像を作った彫刻家の息子の手で新たに復元されました。
ハチが上野教授と暮らしたのは1年ほどでしたので、その忠誠心の強さが伺えます。
アメリカでは、ご主人を待ち続けた犬がモンタナにいました。
1936年の夏の終りに一人の男性が死亡し、その亡骸がグレートノーザン鉄道の霊柩車両に乗せられました。
その場に居合わせた会葬者は、死亡した男性の愛犬シェップという名のコリー1頭だけで、犬は列車に乗り込もうと必死に扉をひっかいていました。
列車が東へ向けて走りだすと、コリーは悲しげに啼き声をあげました。
その後シェップはご主人の帰りを待つために、停車場の下に穴を掘って居場所を作り、駅に入ってくる列車を見張りはじめました。
モンタナのきびしい冬のさなかにも、彼は列車が着くたびに駅へ行き、わずかに尾を振りながら降りてくる乗客一人一人を目と鼻で確認し、「待つ相手」が見つからないと、がっかりした表情を見せました。
一人の車掌がこの話を新聞社に伝えて報道されたあと、たちまち各地からシェップのために食糧や寄付金が送られはじめました。
5年以上にわたってシェップは待ち続けました。
そしてしだいにシェップの体は固く、動きはにぶくなっていきました。
1942年の1月12日、彼は線路の上で西から列車がやってくるのに気づいていたのに、かすんだ目と老いてこわばった足のため逃げきれず、はねられて命を落したのです。
その後、鉄道員たちが出資してコンクリートで彼の像を作り、グレートノーザン鉄道はこの忠太を讃えて、何年ものあいだ夜間にはこの像を照明で照らしました。
その銅像が観光スポットになったハチと違い、シェップの場合は像以外にも忠誠心を後世に伝えるものが誕生しました。
コリーの献身的な行為に感銘した人たちから寄せられた寄付は、かなりな額にのぼりました。
彼の死後その資金はモンタナの耳が不自由な子どもたちの学校へ寄付されました。
現在でも、この「シェップ資金」は、子どもたちに補聴器や盲導犬を提供する基金や教育援助金として使われています。
犬には死の意味がわからないかもしれません。
しかし、彼らは忠誠心、信頼、愛情が尊いものであり、命をも超えることを知っています。
「犬があなたをこう変える」スタンレー・コレン著 より引用
これは訓練士さんが書いたお話です。
ベルギー国内で行われた犬の訓練競技会でのことです。
私はリンク内で行われている犬たちの動きを見て、驚きを隠せずにいました。
というのも、そこで競い合っている犬たちはドックトレーナーに訓練された犬ではなく、みな飼い主が家庭で訓練した犬ばかりで、すべてオーナーハンドラーなのです。
その技量はどの犬を見ても非常に高く、プロの訓練士である私ですら舌を巻く犬も数多くいたほどです。
そんな驚きに輪をかけて、「これはもうお国柄、文化の違いだな」と、完全に脱帽させられたのがひとりの少女がとった行動でした。
年のころは10歳くらいでしょうか。その少女はリンクサイドでシェルティの仔犬を連れて競技会を真剣に見入っていました。
その仔犬は先ほどからずっと、少女の足元で伏せの姿勢を保ちながらおとなしくしています。
仔犬にしても、まだ2、3ヵ月といったところ。いろんなことに興味いっぱいで、なかなか落ち着かせるのは難しい時期です。
そんな姿を見ただけでも私は、「これがヨーロッパなのだな」と、すでに感心しきり。
ところがそれは序の口だったのです。
リンク内で行われていた競技に、会場がちょっとしたざわめきを見せた時、その仔犬はそのざわめきに反応してスクッと立ち上がったのです。
すると少女はためらいもなくその仔犬を仰向けにひっくり返し、のど輪下あごの部分を両手で地面に押さえつけました。
少女は仔犬に向かってひと言、「アフ(伏せ)」と言って十数秒間、押さえ込み、その後、何事もなかったように仔犬を伏せの状態に戻して競技会の方に目を移しました。
さて、もしこの少女がとった行動を日本人社会の集まりの中で行ったとしたら、周りの人たちはどんな反応を示すでしょう。
「まだ仔犬なんだから、そこまで手厳しくする必要はないじゃない」とか、
「子供のくせにずいぶん乱暴なことをする子だな」とか、
おおむね否定的に見る人が多いのではないでしょうか。
ここが日本とヨーロッパでの、犬に対する接し方の根本的な違いです。
「仔犬なんだからいいじゃない」ではなく、仔犬であろうが赤ちゃんであろうが、犬にはきちんと一線を引いてしつけをしなくてはならない。
それがヨーロッパにおける、犬と人間の関係です。
少女が取った行動は、まさに母犬が仔犬をしつける時のものと同じ。
母犬にじゃれてまとわりつき、勢いあまって咬もうものなら母犬は仔犬を引っくり返してのど輪をくわえ込みねじ伏せます。
こうすることで、「咬んではいけない」ということを教育するのです。
犬が腹部をさらけ出すのは服従を示す行動です。
それを強制的に行って、急所であるのど輪をくわえ込んで地面に押しつける。
こうすることで、上位のものが下位のものに対する服従性を育んでいくのです。
ヨーロッパでは、こうした「母犬教育」を飼い主が代わって行います。
またそれは、犬を飼う家庭においては親が子供にしつける教育の一環になっているのです。
それにしてもベルギーで見た少女の犬の御し方はあまりにも見事でした。
まさにヨーロッパの犬文化の程度の高さを意外なところで垣問見て、私は感動すら覚えたほどです。
だからこそ、ヨーロッパにはプロの職業訓練士と呼ばれる人はほとんどいません。
そもそも、犬のしつけにお金を払うことなどナンセンス。他人の手を借りずとも、自分の「子供」のことは自分の家庭の中でしつけていく習慣が古くから根づいているのです。
一方、アメリカにおける犬と人間の関係はヨーロッパとは少し違うようです。
特に都市に暮らす人の場合、犬はまずドックトレーナーに預けられ、そこで基本的なしつけを身につけ、その上で家庭に引き取られるというケースも日本同様あるようです。
これには、アメリカは訴訟国家であるという背景があり、犬を飼うことひとつとっても、慎重にならざるを得ないという事情があります。
咬みつく、吠える、といったことによって、肉体的あるいは精神的苦痛を受けた時、アメリカでは多くの場合、訴訟に発展していきます。
事実そうしたことで財産をすべて持っていかれた愛大家もいるほどです。
つまり彼らにとっては、「未完成な犬」を迎え入れることは、生活をも脅かす大きなリスクになるという考え方が根づいているのです。
そのためアメリカにおけるドックトレーナーの数はきわめて多く、「ドッグビジネス」の市場で動くお金も莫大なものがあるといわれています。
とはいえ、これは必ずしも悪いことではありません。
確かに一番手のかかる社会化期の「育児の放棄」といってしまえばそれまでですが、少なくとも犬を飼うことで「人に迷惑をかけたくない」という気持ちがあるわけですから、それもひとつのお国事情に伴った「愛のカタチ」ということがいえるでしょう。
そして日本の場合はいい意味でいうと、犬に対して100パーセントの愛情を注ぐ国。
逆にきつい言い方をするなら、犬と人間の関係が非常に甘くて緩い国といえます。
そしてそれは、意外なところに意外な影を落としているのです。
日本の動物病院の獣医師たちの手を見ると、多くの人が傷をつくっています。
それはほとんどが、診察に来た犬に咬みつかれたものなのです。
診察中に注射を打とうとして咬みつかれた。
あるいは歯の具合を見ている最中に咬みつかれたなどケースはさまざまあるようですが、誰しも一度や二度はそうした経験をしています。
もしこれがアメリカであったなら、医師は激怒し、「いったいあなたは、犬にどんなしつけをしているんだ!」と、その飼い主を相手取って即刻訴訟を起こすことは間違いないでしょう。
「動物病院の獣医師が、患者である犬に咬みつかれたといって訴訟を起こすなんて、いくらなんでも大げさすぎる!」と思うのではないでしょうか。
事実、こうしたケースで日本の動物病院の獣医師が訴訟を起こしたというケースは、これまでのところ私も耳にしたことはありません。
つまり、「お客さん」である犬と飼い主に対しては「文句が言えない」、あるいは「よくあること」として済ませてしまっているのが今の日本の実情でしょう。
しかし、こうしたところに日本の犬の「しつけ事情」の本質があると私は思うのです。
そしてそれは、改めなくてはならないことだとも思っています。
いかなる状況であったとしても、人を咬むということは、飼い主の責任において防がなくてはなりません。
それは動物病院の獣医師であろうが、一般の人であろうが同じこと。
やってはならないことは責任を持ってしつけることが犬を飼う上での大前提なのです。
ここ最近、犬の立ち入りが禁止されている公園が増えています。立ち入りはできても、ほとんどの公園ではリードを外すことは厳禁です。
またどれだけしつけの行き届いた犬であっても、一般道をノーリードで歩かせていればおおむね、「常識はずれ」と見られるのではないでしょうか。
なぜなら、犬が公共の場に立ち入れば、「必ず何らかのトラブルを引き起こすから」という考えを持つ人がいるからです。
しかし、そうした人を一概に責めるわけにはいきません。
人に向かって吠え立てる、咬みつく、あるいは糞を持ち帰らないなど、犬を疎外する理由はさまざまでしょう。
事実、そうしたトラブルが後を絶たないからこそ、そうした規制が生まれてくるのです。
その事実をまず、愛犬家の方が心に留めるべきでしょう。
いずれにせよ、犬には罪はありません。
きちんとしたしつけを行わない、あるいはルールを守らない、そうした飼い主がいる以上、残念ながらこれからも犬の居場所はどんどん少なくなってしまいます。
ベルギーの街中には、とても日本では考えられないような光景がありました。
街のあちらこちらを、大型犬がノーリードで飼い主の後をくっついて歩いています。
それは、バスに乗っても電車に乗っても同じこと。
犬は飼い主の足元にピタリとくっついて伏せています。
また、そんな様子を珍しがる人は誰もいません。
感心して眺めている私に、隣に座った紳士が、「そんなこと、ここでは当たり前ですよ」とばかりに微笑みかけてきます。
正しい「しつけ」が、犬に自由を与えている!
そんなことをあらためて実感した、ベルギーでの一日でした。
『訓練犬がくれた小さな奇跡』藤井聡 著より引用
ある犬の訓練クラスでボーダーコリーのボビーが他の犬に向かって吠え出しました。
飼い主は大声で吠えるのをヤメるように言いましたが、ボビーは飼い主の大声を応援と受け取りますます吠え始めました。
騒ぎは大きくなるいっぽうで、クラスに居合わせた人たちは、どうしたものかと顔を見合わせるばかりでした。
このとき指導員のジョージが収拾に乗り出しました。彼は犬の習性について少しばかり知識があるらしく、騒ぎをおさめるために高圧的な威嚇行動をとることにしたのです。
そして犬を静かにさせるために、責めるような目つきで犬をじっとにらみつけました。ボビーの耳は服従を示してうしろに伏せられ、体を低くして相手の威嚇を認めた。吠え声はやみました。
だがあいにく静けさは長く続かなかったのです。ジョージが目をそらせたとたん、ボビーがまた吠え始めたのです。
ジョージは腹を立てたようでした。彼は吠え声を意思の伝達と考えるかわりに、訓練と矯正が必要な「状況」として捉えたのです。
ジョージは今度は犬を自分の左脇に坐らせ。ボビーが吠えた瞬間、ジョージの右手が素早くボビーの顎の下を打ち、パシッという音とともに一瞬犬の口が閉じました。
この場面は何度か繰り返されました。吠える、パシッ! 静寂・・・吠える、パシッ! 静寂。
ボビーがふたたび静かになったとき、ジョージは指導員の席に戻りました。もちろんジョージが遠ざかったとたんに、ボビーはまた吠え始めたのです。
犬に吠えるのをやめさせる方法は、これまで数々試されてきました。
私が見た例では、水鉄砲、レモンジューススプーレー、口輪、粘着テープ、ガラガラ音をたてる缶、電気ショック首輪などが使われました。
なかには有効なものもありますが、大半は効果がない。効き目がある場合も残酷になりがちで、犬と飼い主のあいだの関係がそこなわれかねません。
犬が吠えるのは、群れにかかわることがらについて伝えるため。危険を感じとって仲間に警告を発する場合も、群れの領域に何かが侵入したのを察知し、家を守らねばと吠える場合もあります。
原因は何であれ、犬は愛するものたちのために反応しているのです。その献身的な行為にたいして、暴力で報いられたときの犬の気持ちを想像してほしいです。
家から煙が出ているのを見つけて、避難するよう友人に忠告したとたん、「うるさい」といきなり顔を殴られるようなものです。
そのような乱暴な行為は、その後の関係に傷をつけます。しかもこの暴力的な「矯正」は、短期的な問題解決にしかなりません。
しかし、犬の意思伝達パターンを理解していれば、問題は容易に解決できます。
あまり吠え声をたてない野生の犬族も、子供のときは吠えます。安全な巣穴のあたりでは、吠え声をたててもそれほど害はない。
だが、子供が成長しておとなたちの狩りに同行するようになると、吠え声は逆効果になる。間のわるいときに若い狼が吠えると、獲物に悟られてしまう。また、狼の肉の味を覚えた大型捕食動物の注意を引きつけるかもしれません。
それを食い止めるために、進化はかんたんな意思伝達信号を発達させました。
その第一の目的は音を出させないことだから、その信号には大きな音は含まれない。
狼はべつの狼を黙らせるとき、吠え声は使わないのです。
また、その信号には声をたてた個体にたいする直接的な攻撃も含まれません。吠えている個体に噛みつけば、痛がって悲鳴をあげたり、唸ったり、攻撃に反応して走り出したりするでしょう。
そんな騒がしい音や気配は、吠え声と同じほどほかの動物の注意を引いてしまいます。
そこで、吠え声をやめさせるときは、自然に音や肉体的な攻撃をともなわない方法がとられるようになりました。
吠えるのをやめさせるときに野生の犬族がとる方法は、いたって単純です。
黙れという信号を発するのは、群れのリーダー、子犬の母親、あるいは群れでその個体より明らかに順位の高い犬です。
優位の犬は吠えている子犬の鼻面を、牙をたてないようにしてくわえ、低くてかすれた短い唸り声をあげる。低い唸り声は遠くまで届かず、しかも一瞬で終わる。
相手は鼻面をくわえられても痛みは感じないので、悲鳴をあげたり逃げ出そうとしたりすることはありません。
これでたいていすぐに静かになります。
人間もこの行動を真似て、かんたんに犬を黙らせることができます。
犬をあなたの左側に坐らせ、犬の背中のところであなたの左手指を首輪の下にすべり込ませます。
左手で首輪をつかみながら、右手で犬の鼻面を包むようにして押し下げる。
落ちついた事務的な声で、「静かに」と言います。
必要なときは、この動作を繰り返します。
犬種によっては二回から十回程度の繰り返しで、「静かに」という命令と黙ることとを結びつけられるようになります。
このやり方は、群れのリーダーが騒がしい子犬や若いメンバーを黙らせる方法をなぞっています。
左手で首輪をつかむのは、たんに犬の頭を固定させるため。
右手はリーダーが子犬の鼻面をくわえるのと同じ働きをする。
落ちついた声で「静かに」と言うのは、低くてかすれた短い唸り声を真似たもの。
服従訓練クラスで吠えていたボーダー・コリーに話を戻します。
ボビーは完全に歯止めのきかない吠え方モードに入っていました。
私は前述の方法を使い、低い声で「静かに」と言いました。この動作を三回繰り返しただけで、ボビーはそれ以上吠えなくなったのです。
あとでハンドラーから聞いたところでは、一週間のうちに、冷静な低い声で「静かに」と言っただけでボビーはは吠えるのをやめるようになったそうです。
しかし、吠えるのをやめさせるこの方法は、公共の場所などで、吠え声が迷惑になる場合にかぎって使うように心がけたいです。
私たち人間が吠える犬を選択交配してきたのを、忘れてはなりません。
よそ者の接近に気づいて、犬が警告の吠え声をあげたときは、たとえそれが窓の外に猫が見えたからであっても、黙らせないほうが良いでしょう。
吠えた原因がわからないときは、ただ犬をそばに呼んで、軽くなでたりさすったりしてやる。
犬は吠えることで、何千年も前に私たちの先祖から課された仕事を実行しているのですから。
『犬語の話し方』スタンレー・コレン著より引用
我が家にも初めて来る人に凶悪な大声で吠えて威嚇するココという犬が居ます。
ココとしては正しい仕事をしているのでしょうけれど、吠えられている相手が犬嫌いの場合はドキドキでしょう。
場合によってはこの方法を試してみる必要がありそうです。
学者の中には、『犬は人間のような愛情を感じない。褒美をもらえる、褒めてもらえるから愛想を振りまくのだ。』
このように考える人も多く居ます。
しかし、たいていの飼い主は、犬が人をたしかに「愛する」ことを知っています。その例として、ニューヨーク州ロチェスターに近いフィンガー湖に住むロッキーとリタの物語をご紹介しましょう。
ロッキーは栗色に胸は鮮やかな白というボクサー特有の毛色をもつ、体重29.5キロのたくましい犬だった。当時ロッキーは3歳、その友だちのリタは11歳。
ロッキーは生後10週間のときにリタのもとに届けられ、リタはたちまち彼と仲良しになった。
彼をなでてやり、手から食べさせ、基本的なしつけを教え、自分のベッドで寝かせた。
彼女はロッキーを世界一ハンサムな犬だと思い、雨で外に出られない日は彼に帽子やネクタイやスカーフを着けさせ、さまざまなポーズをとらせて絵に描いた。
学校に行かない日には、おたがいに手の届く距離で一緒にすごした。
家族はこのふたりに、「R&R」とあだ名をつけた。
リタはどちらかというと弱虫で内気な少女だったので、成長するにつれロッキーがいわば彼女のガード役になった。
ロッキーがそばにいれば、リタは知らない人や知らない場所も恐くなかった。
ロッキーは彼女の一番の親友であると同時に、頼もしい護衛でもあった。
知らない人と出会ったときは、ロッキーかっとリタの前に出てガードした。
彼は恐いもの知らずのようだった。
あるときリタが店に入ろうとしたとき、暴走族ふうの二人の大柄な男が、なにか叫びながら店から飛び出してリタを突き飛ばしかけた。
するとたちまちロッキーが身を乗り出し、おびえる少女と2人の男のあいだに立ちはだかって四肢を踏ん張り、低い威嚇の唸り声をあげた。
その勢いに恐れをなして男たちは身を引き、少女とその護衛から遠ざかった。
だが、そんな強面のロッキーにも弱点が一つあった。水に対する、病的なまでの恐怖心である。
ボクサーは、一般に泳ぎが得意ではなく水が苦手だが、ロッキーの恐怖心は、子犬時代に植えつけられたものだった。
彼は生後7週間のときある家族に売られだのだが、その家には情緒障害をもつ10代の少年がいた。
彼は新しくきた子犬に家族の関心を奪われ、自分がないがしろにされたと思い込んだ。
妬みと怒りから、彼は子犬を枕カバーにつめ込んでカバーの口を縛り、湖に投げ込んだ。
さいわい父親がそれを見ていたため、子犬が溺れる前に救い出すことができた。父親は少年を叱りつけ、家にもどった。
その翌日、少年がまたしても膝の高さまで湖に入り、もがき苦しむ子犬を水中に浸けて溺れさせようとしているのを両親が目撃し、愕然とした。
このとき助けられたロッキーは、安全のためブリーダーに返却された。
この子犬時代のトラウマが原因で、ロッキーは水には心底恐怖を抱くようになったのだ。
彼は水のある場所を見ると、不安そうに後ずさりした。
リタが湖に泳ぎにいくと、彼は震えながら鼻声をたて、岸辺をいったりきたりした。リタからじっと目を離さず、彼女が乾いた場所に戻るまで緊張し続けた。
ある日、リタの母親がR&Rを湖沿いにある高級ショッピングモールヘ連れていった。
湖の岸沿いには水面から6メートルから9メートルの高さで突き出した土手の上に、幅のせまい板張りの道が作られていた。
リタが板張りの道をカタカタ踏み鳴らしながら楽しげに歩いていたとき、向かい側からきた少年の自転車が濡れた板の上で滑ってリタにぶつかり、ガードレールの下部に開いている隙間へ突き飛ばした。
彼女は痛みと恐怖で悲鳴をあげながら湖へとまっさかさまに落下し、うつ伏せ状態で水面に浮かんだ。
30メートル離れた店の入り口にいたリタの母親はガードレールまで走り、『誰か助けて!』と叫んだ。
ロッキーはすでにその場で水面を見下ろし、恐怖で震えながら吠え声とクーンという鼻声、キャンという悲鳴が入り混じった声をあげていた。
このとき水を眺めた犬の中で、どんな気持ちが駆けめぐっていたか、私たちには知るよしもない。
水は、彼の命を2度も奪おうとした最高に恐ろしいものだ。その恐ろしい水がいま、自分の小さなご主人を傷つけようとしている。
どんな考えをめぐらせたにせよ、彼のリタヘの愛情は恐怖心にまさった。
ロッキーは同じガードレールの隙間から、水中に飛び込んだ。
ありがたいことに犬の遺伝子には、練習なしに泳げる能力が組み込まれている。
ロッキーはたちまちリタのそばまでいき、ドレスの肩紐くわえた。おかげでリタの体がくるりとまわって顔が上向きになり、彼女は咳と一緒に水を吐き出した。
朦朧とした意識の中で、彼女は手をのばしてロッキーの首輪をつかんだ。犬は岸へ向かって必死で泳ぎはじめた。幸い岸までの距離はさほどなかった。
数分の間にロッキーは足で立てる浅瀬まで到達した。彼は力のかぎりリタの体を引きずって、彼女の頭が完全に水の外にでるところまでいくと、そのかたわらに立って顔をなめた全身を震わせ、ターンと啼きながら。
人間たちがけわしい岩場を降りて救助に駆けつけるには、その後さらに数分かかった。
ロッキーがいなかったら、手遅れになっていただろう。
リタとその家族は、ロッキーが自分にとって死ぬほど恐い行動をあえてしたのは、ひたすら少女への愛のためだったと信じている。
このことは、犬は人間に愛情を持たずひたすら自分の利益のために行動するだけだという学者の説に疑問を投げかける。
ロッキーは水に対して絶対的な恐怖心をもち、それは終生消えることがなかった。その後も水を恐がり、湖に足を入れさせることは、二度と誰にもできなかった。
そして誰ひとり、リタに対するロッキーの愛情を疑う者はいなかった。
リタが高佼を卒業し、帽子とガウンを着けて記念写貞にポーズをとったとき、そのかたわらには、いまやだいぶ歳をとったボクサーがいた。
笑顔の少女は犬に腕を回し、彼の片輪をしっかり握っていた。
かつてロッキーが彼女への愛情を究極の形ではっきりと行動であらわした日のように。
さて、アナタの愛犬はアナタが窮地に立ったときどんな行動をとるでしょう?
「犬があなたをこう変える」スタンレー・コレン著より引用
我が家の愛犬に聞きました。
ワタシが危険な目にあったら助けてくれる?
予想通り。
強そうだけど。
こそ泥か。
我が家に美談は似合わないようです。
愛情が足りなかったらしいので
愛情たっぷりゴハンで挽回できるかな?
母を亡くして以来、父は一人で家の留守番をし、仏壇の世話をしてきた。
一日中一人きりで、母の写真ばかり眺めていて、よく痴呆にならなかったと感心する。
父は、明治生まれの大工職人である、持ち前の頑固さと責任感の強さで、人間としての誇りを固持してきたようだ。
その父がある日を境に、家の中や散歩途中で倒れることとが続いた。
父は82歳になっていた。
私は仕事を辞めて、父の世話をすることにした。
いつかこんな日が来ると思ってはいたが、華やかで賑やかな職場とは一変して、無口で陰気な老人と向き合う毎日。
朝から晩まで、ひと言も発しないことも多く、会話どころか笑顔をつくることさえできなくなっていた。
退職から数日経ったある日、買い物に出て友人に会った時、ある現象に愕然とした。
言葉が出てこないのだ。
なんとか相手の名前だけは出たが、次の言葉が出てこない。相手の話にただ生返事を返し、逃げるように家に帰った。
言語障害、あるいは対人恐怖症か、そんな病名が頭をよぎった。
毎日大勢のお客様や百名近い同僚と、騒々しい位の会話の渦の中にいた私。その反動が、急激な環境の変化で表面化したのだろうか。病院に行くべきかどうか悩んだ。
せめて、犬か猫でもいれば話しかけることもできるのに。
そんな話をしただけで父は反対した。
「死ぬからだめだ」訳の判らぬ理屈を添えて、かたくなに話を遮る。
何度も父を恨みたくなった。
酔って機嫌のよい時だけ、父は話しかける。
「買い物に行くか。酒を頼む」
スーパーは近い。父は自分で行くことが多いのだが、天気が悪い時、雪などで道が悪い時、そんな時だけ話しかけ頼んでくる。
老いた父にあまり反抗はできない。顔のしわも増え、少し痩せたようだ。
だが、会話のない生活にも限界を感じていた私は、一人悶々としていた。
気楽に笑えて話せる相手がほしい!
ミーコと出会ったのはそんな時だった。
たまたま姪の家に行った時、もらい手を探している仔猫がいた。小さな身体を更に小さく丸めて、部屋の隅にいた。
仔猫が、何気なく覗き込んだ私を見上げた。
「ミャー」細い声が訴えた。
「おばちゃん、私をつれていって」
私はその場で決断した。
この子は私の子だ。
勝手に決めて、仔猫を引きとった。
案の定、動物嫌いの父は猛反対した。
「茶の間に置くな。二階に置け」
頑固さはいまだ健在だ。しかし何を言われても私の気持ちは怯まなかった。
柔らかな背中を撫でているだけで心が潤う。
すっかり安心したのか、仔猫は膝の上で安らかな寝息をたてている。小さな幸せが私を包んだ。
仔猫は女の子だった。ミーコと名づけた。
ミーコはすぐ懐き、我が家に来た日から一緒に寝た。
一週間もしないうちに、驚くようなことが起きた。
私の留守の間にミーコが父の傍に行き、足元に並んで、時には父の足に頭を載せて昼寝をしているのだ。
父が歩くと家中付いて歩き、トイレの前でちょこんとお座りして待っている。
朝、父が起きてくると、自分が寝ていてもミーコは父の足元へ走り寄り、小さな頭を擦り付けてゆく。
シッ!シッ!と手で払ってもミーコは父に付きまとう。必死な様子に見える。
そんな仔猫の姿が愛おしくもあり可笑しくもあり、久しぶりに私は笑った。
父はと見れば、なんと、父も笑っているではないか。
あれ程、反対して傍へ寄せ付けなかった父が、全身で擦り寄り、甘えた声を出している猫を見て笑顔になっている。
無邪気な笑顔に私は感動した。
小さなミーコが、80年以上も動物嫌いだった頑固親父の心の扉を開かせたのだ。
そして、私たち父娘の仲を柔らかくとりもってくれたのである。
父の膝やお腹の上で昼寝をするミーコ。
長い尻尾を追いかけ、くるくる回る姿が親子に笑顔をプレゼントしてくれた。
「これが、可愛いんだ」
ミーコがじゃれて、父の手を引っかいても怒らない。手を撫でながらそう言う。
寒い冬に、ミーコがベッドにしている椅子で寝ていると、タオルを掛けてやる父。
「寒いか、これでいいか」
私でさえ聞いたことのない言葉を、ミーコに掛ける。不思議だった。
でも、以前、そんな父の言葉を聞いたことを思い出した。
それは、母が病気で何度も寝込んだ時で、父は優しく声を掛けていた。
「大丈夫か、いたくないか?」
私は、小さな猫の見えない力で、父が善良で優しい人間であったことを改めて思い知らされた。
二人でいると、頑固で融通の利かない部分だけを見てしまっていたのだ。
ミーコが家族になって8年目の冬だった。
父は96歳で波乱の生涯を終えて永眠した。
棺が家を出る時、ミーコは廊下に座り静かに父を見送った。
私には、その姿がまるで母のように見えた。
そう、ずっと思っていた。
昼寝をしている時も、庭の花を見ている時も、ミーコは母の持つ独特の表情と雰囲気を漂わせていた。
もしかして、ミーコは母さんだったのだろうか。
きっと、母がミーコという猫に変身して、この世に戻ってきてくれたのだ。
父と娘を心配して、親子の仲をとりもつ天使になって。
私はミーコに深く感謝し、生涯大切にすることを父に誓った。
「ペットと私」から引用
こんな生まれ変わり信じますか?
小さい頃から犬が怖くて、近づくことも触ることもできず、犬がいるとゴミ捨てにさえ車で行っていた私が、なぜ犬を?
それも、こんな怖い顔の野良犬を飼うようになったか?
これにはふか~いわけがありました。
今から5年ほど前でしょうか?
近所の周りに2年近くうろうろしていた野良犬がいました。
その犬は、黒のタワシのような短毛。遠くから見ると、犬の中でも恐ろしさの1位2位を争うようなドーべルマンと警察犬を混ぜたような姿。
性別オス。黒いから「クロ」と呼んでいました。
体重18キロぐらいの中型犬で推定3歳。夜遅く、私や夫が帰宅すると、クロだけはいつも待っていてくれました。
いつしか、家が近づくと、周りにクロの姿を探すようになっていました。
「顔のわりには、おとなしい犬なんだね~」なんて話していたのは初めだけ。
オス犬のせいか、散歩に歩くオス犬を見つけては取っ組み合いの喧嘩の毎日。趣味も特技も喧嘩という、牙むきだしの恐ろしい犬。
見かけも性格も怖い犬を飼ってくれるような人はいないまま2年の月日は流れました。
ある日のことでした。
「あの野良犬、昨日保健所につかまったんだってね」と仕事中、人の話が耳に入りました。
ぐっと涙がこぼれそうな気持ちを抑え、笑顔で仕事。心はもうクロのことばかり。信じられない気持ちのまま自宅に帰ったら、やっぱりクロはいませんでした。
「犬もわかるんだね。連れていかれるとき、あきらめておりの中でおとなしくすわっていたらしいよ・・・」と聞いた言葉が頭の中をぐるぐる回っていました。
「今すぐにでも迎えに行ってあげたい」夫も気持ちは同じでした。
しかし、一時の感情だけで動物を飼っては逆にかわいそうな結果になってしまう。
本当に責任を持って飼えるか?
犬を飼ったことのない私たちが、成大の野良犬が飼えるのか?・・・不安だらけでした。
次の日も、またその次の日も、自問自答の長い時間。答えは出ないままクロが処分されてしまう前の日になりました。
初めに口を開いたのは夫でした。
「殺されるのをわかっていて見捨てることはできない。ここで目をつぶってしまえば、これからすべてのことを見捨てそうだよ・・・人間としてクロを救わなきゃだめだよ」という言葉で引き取ることを決心しました。
近所の人からも、
「お願いします。なんでも手伝うから連れてきてやってください」と応援を受ける中、クロを探して保健所に電話。
あちこちたらい回しの末、ここから一時間半も離れた最終処分所までクロは送られていました。
簡単にクロを引き取れると考えていた私たちへのセンター員の返事は、意外なものでした。
「飼い主じゃなければゆずれません」「そんないわくつきの犬飼ったって、ストレスでかむようになったり大変ですよ」とのことでした。
そう言われ、夫が「じゃあ飼い主という形でいいので譲渡してください」と頼むと、
「それなら、今までの責任は取れるんですか?」耳を疑うような返事でした。
野良だったのに、今までの責任ってなんですか?
飼い主がいるはずないじゃないですか!
野良だったのですから・・・。
クロに明日はないのです。
電話では話がつかないと、私たちは、仕事を抜けてクロを引き取ってくるために直接向かいました。
車中で「もし、クロが興奮していて、私たちを見ても、うなっていたり、かみついたり、クロが帰ることを拒否したら、もうどうすることもできないな・・・そのときは、さよならだけ言ってこようね・・・」と夫に言われ、
私の口から出た言葉は「さよなら言うんだったら、最後の姿は見たくないよ・・・見ないであきらめたい」と、涙ばかりポロポロ
センター員に、連れていかれたところは、冷たいコンクリートづくりの建物。
中に入ると、ワン!ワン!たくさんの犬が吠えていました。
1目目・・・2目目・・・おりには、札がつけられています・・・死を待つだけの犬たち。
そのとき、「あの犬です!」と、夫の声!
指の先には、きょとんとしたクロの姿!
「クロー クロー」私の叫んでいる声は涙でつまってしまいました。
クロは、私たちの姿を見て、しっぽを振っています!こっちに来たくって、立ち上がっています!
首に縄をつけられて、連れてこられたクロは、私の胸に頭をうずめてきました。
不思議なことに、クロを怖いなんていう気持ちは、全くなくなっていました。生きていてくれた
ことが嬉しくって、ぎゅっと抱きしめました。
何日も、ここで夜を過ごしてあきらめていたのでしょう・・・クロとともに夜を過ごしたもう1匹の犬もクロを見つめていました。
私たちにべったりのクロの姿を見たセンター員は、しかたなく返してくれることになりました。
もちろんたくさんの書類へのサインを書かされ、クロのお泊まり代を払い、一生分のお説教もいただきながら・・・。
クロを連れて帰れるなら、そんなことはなんともなかったのです。
やっとクロは開放され、前科一犯、仮釈放中というところでしょうか?
帰りに、必要なものは全部買い込み、家に着いたら、近所の方がみんな集まって、クロの帰りを待っていてくれました。
どの方の目にも涙・・・この瞬間、引き取りに行ってよかったと、しみじみ思いました。
次の日には、ノミやダニだらけたったクロに予防注射・薬、健康診断をやってもらい、登録を済ませ、ついに家の子になりました。
たくさんお金がかかっだけど、安心してぐっすり寝ている姿を見たら、これでよかったと思っています。
子供の頃、誰かに捨てられ、2年間野良犬をやって、今回最終処分所まで送られてしまったクロ。
クロの心は、たくさん傷ついて、そして、人間への信頼もなくしていたようです。
鎖につないでおけば、他の犬が来て喧嘩してるし・・・
宅急便屋さんは、牙むきだしのクロに腰抜かしているし・・・
恐ろしがって、誰もチャイムを鳴らさないし・・・
毎日が大騒ぎです。
先日も脱走して、警察に保護されて、前科二犯になりました。
土手にいるオス犬にずっと吠えていて、私にゲンコツもらったり、知らないうちに近所の方においしいもの
をもらっていたり・・・。
これからも大変なことがあるでしょう・・・。
でも、獣医さんの「しつけは何歳になってもできるんですよ」の言葉を励みにがんばっています。
クロの顔も日に日に優しくなってきて、犬との生活に慣れた頃。散歩の途中、クロが土手で生まれたてのまだ目も開かない仔猫を拾ってきて助けました。
私たちがクロを救って、今度はクロが仔猫を救って、命はつながっていくのだと思います。
ペットショップにいるような豪華で綺麗な犬や猫ではないけれど、命の重さはみんな同じです。私にとっては、かけがえのない大切な宝物。ペットと言っても出会い方は人それぞれ。
怖いと思っていた犬は、今は一番犬切な家族になりました。
そんなクロと仔猫と新米飼い主の格闘生活は、まだまだ始まったばかり。
今日も、空飛ぶ勢いで引っ張られながら土手まで散歩です。
「ペットと私」より引用
保健所一歩手前で引き取られたココが我が家に来た時も大変でした。
人間を信用してないし。
大きな声を出すとお座りして震えて動かないし。
家の中全部がトイレだし。
うんPは食べるし。
もう毎日、大騒ぎ。
でも、徐々に慣れて本当になついて可愛い犬になりました。
どうしてこんな素性のイイ子が捨てられることになるのか不思議です。
6歳になった今は生まれた時から我が家に居るような顔をしています。
いまあなたは、誰とベッドをともにしていますか?
といってもこれは、セックスライフにかんする質問ではありません。
四つ足の友だちが、あなたのとなりにもぐり込んでいるかどうかを、訊ねているのです。
最近の調査によると、犬を飼っている人のおよそ半分が、犬を自分と同じベッドで寝かせています。
犬が布団にもぐり込める確率は、飼い主の年齢と性別で違ってきます。
犬と一緒に寝る割合が最も高いのは、18歳から34歳までの女性で、このグループの女性の10人中6人が、犬を自分と同じベッドに入れています。
犬をベッドから追い出す可能性が最も高いのが、45歳以上の既婚男性です。
しかし、このグループでも、犬と一緒に寝ている男性が四割近くいます。
著名人や資産家や権力者の中でも、犬と一緒に眠った人物は多くいます。
古代エジプトのラムセス一世、アレキサンダー大王、ヴィクトリア女王、ロシアのピョートル大帝などなど。
犬と同じベッドで眠ると、心理的に安らげるものです。
かたわらに愛する友がいれば闇の中でも孤独や不安を感じないですみます。
しかし、犬と一緒に寝ることは飼い主にとって犬が好ましくない勘違いをしまう可能性もあるのです。
心理学の世界では、犬たちの群れには厳しい上下関係が存在することが知られています。
軍隊さながらに、司令官である群れのリーダーから最下位の兵卒まで、個体それぞれが階級に分かれているのです。
リーダーの犬は、食物の支配権を握り、優位な場所を自分のものにして、ステータスを誇示します。
リーダーの犬は自分の行きたいところに行き、眠りたい場所で眠ります。
その場所は、ほかの仲間を見下ろせる(そして自分を大きく見せられる)場所なのです。
そのためあなたがベッドの上で眠り、犬が床で眠る場合は、あなたが群れのリーダーであることをそれとなく示すことができるのです。
しかし、犬をベッドに入れると、犬がいる高さはあなたと同じになるため、たがいの力関係は同じと解釈されかねないのです。
その結果あなたのリーダーとしての立場は損なわれ、犬がわがままになったり、言うことをきかなくなったりする場合があります。
そのほかにも落とし穴があります。
群れのメンバーは、リーダーが近づいてくると道を開けて、敬意をあらわします。
そのように数歩引き下がる動作で、自分の地位の低さを認めます。
道をゆずらずにいると、体当たりではじき飛ばされます。
体当たりのおとなしい変化形が、相手に寄りかかることです。
自分の優位を示そうとする犬は、相手に体をもたせかけます。
このとき相手が少しでも動いたら、よりかかった犬の優位性が認められたことになります。
あいにく、私たちは同じベッドで犬と寝ているとき、犬が寄りかかってくると親切心から邪魔をしたくないと考え、自分の体を引いて犬に場所をゆずり渡します。
これもまた、自分のほうが優位と読み取れる信号を、犬に与えてしまうことになるのです。
というわけで、あなたがどうしても犬と一緒に寝るという場合、少なくともあなたが寝返りを打つときやスペースがゆったりほしいときは、犬に場所をゆずらせること。
そうすればあなたの愛犬に、自分のほうが偉いという幻想を抱かせずにすむでしょう。
犬と同じベッドをわけあうときは、べつの問題もあります。
調査によると、夫婦やカップルの片方が犬と同じベッドで寝るのを嫌がり、それがもとで二人の関係にひびが入ったケースが13パーセントありました。
「犬があなたをこう変える」スタンレー・コレン著より引用
ワタシの横には毎日フラットのココが寝ています。
暑くて寝苦しいのにくっついてくるので、ワタシは無意識に逃げているようです。
朝になると布団の端で寝ていることもしばしば。
最近、指示に従わないのはこのせいなのかな?(笑)
昔むかし聖書の時代に、大洪水がやってくるからその前に箱船を作るようにと、神さまがノアに告げました。
『家族を箱船に乗せ、洪水から守りなさい。そして見つけられるかぎりあらゆる種の動物のつがいを集め、箱船に乗せなさい。』
最初にノアのもとに連れてこられたのが、つがいの犬でした。ノアは船全体を監督する役目を二頭に任せました。
犬は人間を愛し、人間の期待に応えることを喜びとしていたので、すぐさまその役目を引き受け、あたりを見回って警戒の目を光らせました。
犬たちが船内を巡回している時、船底の横腹に穴が開いて水が流れ込んでいるのを発見しました。
オス犬は鼻先をその穴に押し込み水の侵入を弱めて、メス犬をノアの元に走らせました。
メス犬の警報を受け取ったノアと息子たちが船底へ降りてくるまで、犬はどれくらい待たされたでしょう。
彼らが到着したころ、鼻で穴をふさいでいたオス犬は疲労困ぱいし、ほとんど意識をなくしていました。
そのあと全員が力をあわせて水をくみ出しても、船底が乾くまでには数日かかりました。
犬たちの迅速で英雄的な行動がなかったなら、船底に大量の水がたまり、船はその重みにたえかねて沈んでいたにちがいありません。
神はその一部始終を見て、犬たちの献身的で賢明な働きを誰も忘れてはならないと考えました。
犬たちの勇気と忍耐がなければ、地球上のすべての生き物が滅亡しかねなかった。そのことが永久に忘れられないようにと、神は濡れた鼻を犬にあたえたのです。
そのとき以来、『善良で勇敢』な犬はみな濡れた鼻をもつようになったのです。
お宅の犬は
『善良で勇敢』ですか?
それとも
『臆病な弱虫』ですか?
本来の犬の鼻が濡れている理由は、二つ。
一つは体温調節。
濡れた鼻から蒸発する水分で体温を下げる。
犬は水分を蒸発させられる部分が、足の裏と鼻だけ。それとべつに、口を
開けてハアハアすれば、舌から水分が蒸発する。
二つ目は臭いを嗅ぎやすくする。
濡れた鼻のほうが空中の物質を取り込みやすく、臭いを嗅ぎ分けるのに便利。一生懸命臭いを嗅どうとするとき、犬は自分の鼻をなめて湿らせ、臭いを集めやすくする。
ですね。